いつも一緒。

僕は20歳の時に、
オートバイで転倒し、
脊髄を損傷し、
下半身の自由を失いました。

車イスを使って生活をしています。


当時、
1990年という時代は、
空前の「走り屋ブーム」でした。

「峠を攻める」

というのが、
当時の若者たちのステータスでした。

大袈裟な言い方でしたが、
当時の若者は、
自分自身の主張が出来るのは、

街でナンパするか?
自動車かオートバイで峠を攻めるか?
自動車かオートバイで街中を暴走するか?

そういった事に精力を注いでいた。

「当たって砕けろ!」

というような、
とても正直で、
とても熱い時代でした。

昭和って、
そういう時代でした。


当時ね、
僕は奈良県の香芝市という街で暮らしていました。
彼女と同棲していました。

毎週、
日曜日になると、
大阪府と奈良間の県境にある、
「金剛山」
という山に行くんです。

登山が目的ではありません。( ´艸`)

走り屋のメッカである、
「表金剛」だとか「裏金剛」
と呼ばれている、
走り屋の集まる峠へ行くのです。

彼女をオートバイに乗せて、
峠に行くんです。

彼女を安全な見物コーナーで降ろして、
僕は峠を攻めるんです。

峠で速く走れるってことが、
男のロマンでした。

その峠で、
1番、
早いヤツがかっこいい!

それが走り屋の夢で目標でした。


下記動画は、
僕が事故を起こしてしまっ以降に、
撮影された動画のようです。

僕がこの峠で事故をし、
何週間後の撮影のようです。

走り屋 1990 大阪 金剛山 観心寺 バイク

https://www.youtube.com/watch?v=RFQwnp092WY&t=34s




この峠で、
事故を起こしたときに乗っていた、
ヘルメットとオートバイです。

ga.jpg



NSR250R SP ロスマンズカラー

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出典:WEBオートバイ


ちなみに、
事故を起こしたコーナーです。
事故を起こしたとき、
タイヤを温めていたので、
さほど?スピードは出ていませんでした。

通常は、
このコーナーを、
僕は、
「4速ハーフスロットル」
で曲がっていました。

1gtsz.jpg



大体の人は、
3速ハーフスロットルだったかも。

というか、
このコーナーまで、
4速に入れれる人が少なかったです。

僕は前のコーナー出口で、
パワースライドを使って、
車体を出口に向けて、
パワースライドをしているので、
回転数も上がっていて、
加速しながらコーナーを出て、
すぐにシフトアップが出来たんです。

4速ハーフスロットルでコーナーを抜けるので、
軽く100キロ以上のスピードは出ています。

また、
このコーナーは、
デコボコしています。

僕のオートバイは車体が軽いです。
コーナーで飛び跳ねるんです。

だから、
サスペンションを柔らかくして、
前輪のホイールを重たいホイールに変え、
バランスを調整していました。
それでも飛び跳ねます。

この、
高速コーナーを、
「気合」
でクリアーしないと、
リッターバイクの人達に置いて行かれます。

少しでも直線が長いと、
リッターバイクの人達に、
置いて行かれるから、
どこかで無理をしないといけませんでした。

そこは、
マシンの性能どうこうの問題ではなくて、
「気合」や「根性」
という性質が求められました。

死ぬ気で走らないと、
リッターバイクの人達には、
ついていけなかったのです。

だってね、
動画のリッターバイクの人達はね、
前後、
「スリックタイヤ」を入れてるんですよ。

僕は、この動画のリッターバイクの人達の、
真後ろで走った経験があります。

速いのは速いですが、
黒いリッターバイクの方は、
右コーナーが苦手なようで、
登りは楽勝でついていけました。

下りになると、
少し直線が長くなって、
少し話されてしまいます。

その直線だけは、
リッターバイクの方にはかないません。

僕は峠に行く時、
リアシートに彼女を乗せて行きます。

それが良かったんです。

リアサスペンションがへたって、
踏ん張りが効きません。

だから良かった。

あの悪路に、
丁度良かったんです。

ある意味、
お金を使わず、
アナログなセッティングでした。


僕の目標は、
この峠で「NO.1」になる事でした。

速い人達の背中を追って、
いよいよ、
ってところまで来た時、

僕は何だか冷めちゃってね。

というのも、
「あと、こうするだけで勝てる!」

と結果イメージ出来たからです。

リッターバイクの人達に勝つためには、
今、
乗っているバイクで、
どのようなチューンをすれば良いのか?

それがイメージ出来た。

それを実践するには、
「お金」が必要です。

テクニックを磨くのは、
当たり前のことで、
それは大前提で言うまでもありません。

日々、テクニックを磨きつつ、
リッターバイクの人達に渇方法を模作するんです。

どうしても、
少しでも直線が長くなると離される。
それをカバー出来ればいいんです。

一番、
簡単な方法は、
稼ぎのいい仕事に転職し、
ドバっと稼いで、
僕もリッターバイクを買えば、
「勝てる自信」
がありました。

今、
乗っているNSR250RSPに、
直線で置いて行かれない、
中高速域のパワーがあれば、
伸びがあれば勝てるんです。

それがないから、
置いて行かれる。

自分のテクニックと、
根性と気合で、
リッターバイクを追いかけていたのです。

命がけでした。

100キロ以上のスピードで、
飛び跳ねながらコーナーを抜けるのですから。


当時ね、
バイク雑誌で、
「バリバリマシン」
という雑誌がありました。

走り屋たちが写真を投稿したり、
走り屋スポットの取材記事なのが、
書かれる雑誌で、
走り屋が愛する雑誌でした。

その、
バリバリマシンの取材が、
僕が走る「裏金剛・観心寺」という峠に、
取材に来たのです。

1990年9月9日(日)でした。

バリバリマシンの取材が来ている時に、
この動画に映っている、
2人のリッターバイクの人達とバトルしていました。

バリバリマシンに、
僕の写真が写っていました。(o^―^o)ニコ

前を走るのが、
動画の黒いRC30でしょうか。
前後、スリックタイヤを履いていました。

僕の後ろを、
GSXが走っていました。

前のRC30の人よりも、
後の、GSXの人の方が速かったと思う。

3台でバトルをしていました。


しばらく走っていると、
パトカーが来ました。

それで、
彼女を乗せて、
いつもの避難場所へ移動しました。

そこで、
動画の、
2人のリッターバイクの人達と話をしました。

「君、あのコーナーで飛び跳ねてるやん!」

と、リッターバイクの2人が笑っていました。

そうでもしないと、
あんたらについて行けないんだよってね。( ´艸`)

その時に、
バリバリマシンの取材の方が来ました。
バリバリマシンのステッカーを頂きました。


その日は、
最後の、
良い想い出が出来ました。

また、
オートバイを卒業する気にもなりました。

僕は自分のテクニックをフル活用し、
「気合」と「根性」で、
命がけで峠を走っていました。

それで、
かろうじてリッターバイクの人達について行けた。

少しでも気を抜けば、
置いて行かれる。

それがね、
お金を掛けて、
パーツを交換すれば、
「気合」を入れなくても、
速く走れるんです。

リッターバイクを買えば、
無理しなくても、
安全に速く走れるんです。

極端な話ですが、
軽四自動車で、
GTRと、
上り坂で勝負するようなものです。

下りならまだしもね。

ものには「限界」があります。

テクニックを磨いて、
限りなく限界に近づけて、
それでもダメな時に、
チューニングするんです。

そして、
チューニングにも限界があるんです。


それが見えたので、
イメージ出来たので、
オートバイで、
峠でNO.1になる目標が冷めたのです。

ああ、お金さえれば、
いつでも勝てる。

そう思ったら、
冷めちゃったんです。

安心したというかね。


変な例えですが、
好きな女性が出来た。

やっとキスが出来た。

すると、冷めちゃう。

そんな感じ。

安心するのかな。


それで、
同棲していた彼女の事を考えました。

今まで、
僕の夢のために、
いつも一緒にいてくれた。

彼女は、
僕が走っている所を見たくて、
いつも一緒に峠に来ていた訳ではない。

僕が事故をしたとき、
いち早く、
助けを呼ぶためだったんです。


僕は彼女に言われたことがあります。

「私の事と、バイクの事と、
どちらが大切なの?」

そう聞かれた時、
僕は答えました。

「ごめん、俺には目標があるから」と。

僕はね、
彼女には言っていませんでしたが、
僕がバイクで速くなれば、
それで稼げると思ったんです。
レーサーになれば、
彼女にも楽をさせて上げれるってね。


僕の言葉を聞いた彼女は、
オートバイの免許を取りました。

そして、
僕は仕事を辞めて、
2人でバイトを始めました。

同じ職場です。

寝る時も同じ。
食べる物も同じ。
起きる時間も同じ。

何をするのも一緒。

離れる時っていうのは、
トイレと銭湯に行く時ぐらいでした。

それ以外は、
24時間、
いつも一緒でした。

朝から夕方まで、
2人でガレージでバイクの整備をします。

彼女も、
自分のバイクを購入しました。

練習がてらに乗るバイクですが、
可愛いバイクです。

hj.jpg



彼女は、
僕の整備の様子を見ながら、
自分のYSRの、
ピストンリングを交換出来るようになりました。


僕はバイクの目標が冷めて、
我に返ってみると、
彼女に何もしてあげていなかった。

だから、
今度は、
僕が彼女の夢を叶えようと思ったんです。

バイクを降りて、
定職について、
稼いで、
家を建てて、
家族を作ろうと考えました。


そして、
ラストランではありませんが、
バリバリマシンの取材があった、
次の日に、
峠へ走りに行きました。

峠にお別れを言うために。


そして、
事故を起こしたのです。

スピードを出していた訳ではありません。

想い出を噛みしめて入っていたのですから。

僕は、
どんな風に事故をしたのか?
記憶がありません。

コンクリートの壁に、
頭から激突したようで、
ヘルメットが大きく陥没していて、
バイクは大破していて、

僕は約15か所ほど骨折し、
両方の肺が潰れ、
脊髄が圧迫骨折していました。

2~3日持つかどうか?
と、彼女は医師から言われたそうです


僕が意識を取り戻したのが、
事故を起こして10日くらいだったでしょうか。

首が動かず、
体全体が動きませんでした。

目だけが動かせました。

2か月ほどたって、
症状が落ち着いてきて、
地元の奈良県の病院へ転院することになりました。

地元の病院ですから、
仲間がお見舞いに来てくれました。

しかし、
転院してすぐに、
副院長から言われました。

「高瀬君、君は車イスを使って生活しないといけません」
「脊髄を損傷していて、歩けない体です」

そう告げられました。

そして、
僕の足を触って、
「なんだ?この足は?」
と言われました。

大阪府の病院で入院していた時に、
無理に足を動かすリハビリをされていて、
間接が固まってしまっていたようです。

それを見た副院長は、
「こんな足じゃ、車イスにも乗れないぞ!」
と怒鳴るんです。

僕はね、
ケガをして、
自分の置かれた状況を飲み込んでおらず、

しばらくしたら、
歩ける元の体になるんだと思っていました。

誰も、
僕が歩けない体だとは、
教えてくれていませんでしたから。

家族や彼女は、
僕が歩けない体だというのを知っていました。
医師からきかされていたのです。

僕だけが、
歩けない体だと知らなかったのです。


事故を起こして、
3か月経って、
地元の病院へ転院して、
いきなり、
「歩けない体」だと告知され、

「なんだこの足は!」と怒られ、

僕は混乱しました。

何がどうなってんだろ?

って。


俺は歩けない体で、

そして、
無理なリハビリをされて、
足が曲がらなくなっている。

そして医師に怒られている。


涙も出ませんでした。



医師からの告知を聞いた時、
腹が立ちました。

「何でお前に怒られないといけないんだ?」
と。

僕はケガをして入院した。
入院した病院で、
無理なリハビリをされて、
足が曲がらなくなった。

僕は被害者です。

被害者の僕が、
「なんだこの足は!」
と怒られるのです。

僕が、
リハビリをして下さいと、
頭を下げてリハビリして貰ったのではない。

入院先の病院の判断で、
リハビリしていたのです。
そして足が曲がらなくなった。

それで僕が怒られた。

だから腹が立ちました。


足が動かないという言葉よりも、
理不尽に怒られたことに、
とても腹が立ちました。

医師の告知の時、
横には彼女が居ました。

医師の告知を聞き、
僕は腹が立っていましたが、

彼女は、
泣き崩れていました。


医師達が去り、
病室は2人っきりになりました。

彼女が言いました。

「泣きたかったら泣きや!」

と。

しかし、

僕は泣けなかった。


歩けない体だと、
認めれなかったからです。

それよりも、
あの医師の言葉に怒りを感じていました。

あのヤブ医者が、
俺を歩けない体だと言いやがったなら、

「俺は歩いてやるよ!」

という感情があったからです。


後々になって、
僕は副院長の優しさに気が付かされます。

僕はあの時、
副院長に、

「高瀬君、君は脊髄を損傷して歩けない体です。」
「頑張ってリハビリをして車イスで生活してください。」
「きっと、生きていればいい事もありますから。」

こんな甘い言葉をかけれれていたら?

僕は絶望していたと思うのです。

それがどうでしょう、
副院長の言葉を聞いて、
「あのヤブ医者め!」
「俺は歩くぞ!」
と怒りの感情がありました。

悲しくなくて、
怒りの感情しかありませんでした。


それが救いだったんです。

怒りの感情があったから、
僕は、
歩けない体ですが、
立ち上がれたのです。

心が立ち上がったのです。


副院長は、
あえて、
僕を叱る付けました。

それは、
理不尽なこと言っているのは、
副院長も承知のうえ。

僕を失望させないための、
心配りだったのです。


入院生活が長くなるにつれて、
自分が歩けない体だというのは、
少しずつ理解出来てくる。

そして、
同棲していた彼女との、
心の距離が開き始めている。

僕は、
彼女を幸せにしようと思った矢先に、
歩けない体になってしまった。

情けなくてね。

この先、
どうすればいいのか?

まったく解りませんでした。

彼女の顔を見るのが辛かった。


ある時、
彼女と喧嘩をしました。

彼女は帰りました。

病室の外を見ていると、
遠くの方からバイクの音が聞こえます。

彼女のバイクです。


僕の病室の前に止まって、
こちらを見ています。

ずっと、
見ているんです。


僕は事故をして、
初めて、
涙を流しました。


遠くにいる、
川の向こうの彼女を見て。


僕は、
もう、
その川の向こうの、
彼女と、
一緒には暮らせないんだなって。


そんな想い出もありましたが、

その彼女とは、
今でも連絡を取り合える仲なんです。

いまでも親友なんです。


いつも一緒にいた彼女。

何をするのも一緒だった。



いえ、

いつも、
僕と一緒にいてくれた彼女でした。






MAX / 一緒に・・・

https://www.youtube.com/watch?v=OA1K1q4RqNo






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