常識とは、社会と折り合いをつけるための「指標」です。

世の中には「常識」というものがある。

常識というのは、
一般的な人達の知識であったり、
思慮や分別を表すようです。

思慮に欠けた言動をする人は、
「常識のない人」
とレッテルを貼られることになる。


しかし、
今では常識になっている事でも、
それが常識になるまでは、
未知の状態で、
未知の事に対してチャレンジする時には、
非常識に映るものです。

いわば、
それが常識なのか?
非常識なのか?
それを決定するのは、
社会での「多数決」なのかも知れませんね。


非常識な事を、行う人が増えれば、
それがやがて定着して、
常識になるのかも知れません。


そういった事で、
常識では考えれない言動をしている人を見ると、
「常識で考えたら、それはおかしいだろ!?」
というような批評をする人がいます。

しかし、
「それはおかしいだろ!?」
と言う人こそ、おかしいのかも知れません。


一般常識という「物差し」を使うと、
型にはまらない事だったら間違いになる。

それはあくまでも、
「一般常識」になっていないだけであって、
決して間違いではないのです。


というより、
一般常識という物差しでしか、
物事を計れない心の狭さを露呈しているのです。


もし、
自分が一般常識にそぐわない出来事に直面した時、
「それは間違いだろ!?」
と唱えるけれども、
それがいざ、
一般常識になってしまうと、
手の平を変えたように、
それを正当化するんです。


そういう、
自分に信念のない人も多いのです。

世間体や社会に合わせようとするばかりに、
「自分を見失う」人が多いようです。


十人十色という言葉があるように、
この世の中には、
色んな価値観や主観があって良いものです。

色んな価値観があるからこそ、
文化が構築されるのでしょうし。


「それは常識的に考えておかしいだろ!」
と人を批評する人は、
常識を引き合いに出して、
実は、
自分の「こだわり」を貫きたいだけの人もいます。

自分の主観を押し通したいだけなのです。


そう言う人もいれば、
自分の意見を出せない人がいて、
社会の流れに身を任せる人も多い。

「みんながやっているから」

というように。


みんなと同じことをやっていれば、
安心できますからね。

安心感は得られても、
そこに、
幸福感はありますか?

自分の主観が、
そこにありますか?


社会で営むためには、
社会との「折り合い」が大切です。

折り合いを点けれない人は、
社会からはみ出して行きます。

追い出されるのではなくて、
自らはみ出てしまうのです。

自らはみ出ておいて、
言うのです。
「社会が私を追い出した!」と。

自分が折り合いをつけずに、
我を通すからはみ出しただけ。

それを社会に責任転嫁するのです。
心が狭いです。


一般常識というのは、
社会と「おりあい」を付けるための、
「指標」となります。

しかし、
その一般常識に、
「振り回され」てはいけませんよね。


あくまでも、
一般常識というのは、
社会との折り合いをつけるための、
指標として用いらなければ危険です。


IMG_2840.jpg





スポンサーリンク