「メッセージ」を、そのまま「メッセージ」した。

最近、心が重たいです。

意識して、
目をそらそうとしていた事に、
目を向けているからです。


20歳の時に聖書と出会って、
22歳の時にイエス・キリストの、
「十字架の死と復活」を信じ、
26歳の時に教会の輪から追放されて、
信仰生活から遠のいていました。


信仰生活から遠のいてしまってからは、
意識して、
聖書に触れないようにしていた。

しかし、
信仰を捨てた訳ではありません。

信仰を捨てれない。

でも、
教会から追放されるほどの人間です。
理由はどうあれ。

僕が教会から追放された理由は、
僕がその教会堂へ通う事で、
悪影響を及ぼすからでした。

だから、
追い出されて良かったのでしょう。


神様への信頼は捨てることが出来ませんが、
人間への信頼は薄れました。

「何が兄弟姉妹だ!?」
「お前ら口だけじゃないか!!?」

当時は、
心からそう思いました。


この世で信じられるものは、
聖書と自分だけだと思っていました。

しかし、
いざ、
教会から追放されると、
この世に自分の「居場所」を見失ってしまってね。

信仰生活をしていた頃は、
聖書の言葉に沿った生活をしていて、

教会から追放されてからは、
一人で聖書の言葉に沿った生活をしていましたが、
やはり教会の交わりが断たれると、
クリスチャンか?
未信者か?

見分けのつかない生活になるのに、
そう長くは掛からなかったです。


未信者のような生活になると、
益々、
聖書に触れると心が痛みます。


だから、
出来るだけ聖書を見えない所に隠します。

こんな生活が、
意味の無い事だと知りながらも、
すねた子供のようにやってしまう。


そうやって、
意識していながらも、
聖書というものから目をそむけていたんです。


ところが、
今年になって、
通っている病院にクリスチャンのスタッフがいたり、
クリスチャンの患者さんが通っている事をしりました。

また僕も、
「そろそろ人生の潮時かな?」
なんて感じています。


そんな事で、
死を迎える前に、
もう一度、
気持ちを整えたいと思いました。

俺の人生、

「これでいいのか?」

と。


そして、
人工透析を受けている時間に、
昔、
よく聴いていた、
牧師先生のメッセージを聴いています。

牧師先生のメッセージを聴いては、
親友との会話の中で、
僕が先生から聞いたメッセージを、
親友に語っているのです。


昨夜も友人と電話をしていました。
友人が人間関係で悩んでいました。

友人の人間性も良く知っていますから、
内容を聞かなくても、
どんな理由で苦しんでいるのかも解ります。

それでも話を聞いてみます。

聞くと、
やはり思った通りの悩みです。


人間関係で悩むとき、
必ず「原因」があります。

その原因を分析すると、
いろいろ見えてきます。

答えも見えてくるでしょう。


その親友もクリスチャンです。
僕と同じく、
路頭に迷い込んでしまったクリスチャンです。

神様への信頼も失ってはいませんが、
牧会者がいなくて、
まるで、迷子になる羊のようです。


親友が悩んでいる時、
力になるのが聖書の言葉です。


地上の生活に気を取られ過ぎていると、
人間関係で苦しんでしまいます。

でも、
天を見上げた生活をしていれば、
今まで苦痛だった人間関係が、
ちっぽけな事になります。


僕達クリスチャンは、
大きな船に乗って、
天国という世界に向かっています。

そこが終着点です。

無事にたどり着くことが、
ちゃんと約束されているのです。


僕は、
牧師先生のメッセージを聴いて、
そのメッセージを友人に語ります。

語る事によって、
僕自身の心が目覚めてきました。


残りの人生、
吟味して歩んでいきたいです。


この世には、
何の希望もありませんが、

死後、
新しい世界が用意されている事で、
それが僕の希望となっている。


この世の未練を断ち切っていく事、
しがらみから解放される事、

それが僕にとっての最善だろうし、
それが幸せなのかなと思う。


死後の問題をクリアして、
そして、
この世を歩んでいて、
「ああ、幸せだな」
と思えることが、

人間にとって、
本当の幸せなのかも知れません。


人間がこの世界にやって来て、
死後、
どこへ行くのか?

その答えを知ることこそが、
人間の幸せだと思います。

それを実感しながら生活することも、
幸せなのだと思います。


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