過去の栄光にすがりついて・・・ (エッセイです)

慢性腎不全という病気になった。

週に3回の通院が始まった。

×2で、無職で、子供もいないし、
大きなケガで両足も失った。


障害基礎年金と、
家族の支えで生活が出来ている。


通院の無い日は、
1日中、ベッドの上で窓の向こうを眺めている。

そして「退屈だな」とつぶやく。


テレビを観ていると楽しいけれど、
いざ、自分にはそれが出来るのか?
というと出来ない事の方が多い。

観ていると空しくなるからテレビも観なくなる。


そして、
過去の栄光を思い返す。

過去の栄光だけが、僕の唯一の理解者だ。


俺に、
今、
歩ける足さえあれば、
何でも出来たろうに。


俺には、
過去の、
あのような栄光があったのだから。


両足さえあれば、
歩けさえすれば、
俺だって、
俺だって、
こんな人生で終わっていなかったはずなんだよ。


それがどうだ、
今の俺の様は。


死ぬまで、
週に3回の通院を続けて、
病院と家を、
行ったり来たりの人生だ。


仕方がないよな。

病気になったのは、
誰の責任でもない。

自分の生活習慣が招いたことだ。
自業自得だ。


自業自得と解っているけれど、
それを認めてしまうと、
更に自分を追い込んでしまう。

だから、
誰かに責任転嫁して、
少しでも、
自分の逃げ道を作っておきたい。

これ以上、
心が壊れていく自分が情けないから。



隣の部屋からサッカー中継の音声が聞こえてくる。

聴きたくもないが、聞こえてくる。


サッカーが大好きだった。


でも、
今は、
そのボールさえ蹴れない。

自分がピッチに立たない、
そんなサッカーを観ても、
俺にはピンとこない。


俺はアスリート。


観る側の人間ではなくて、
見せる側の人間だった。



それがどうだ、
今の様は。


観られる側の俺が、
違う意味で、
観られている。


歩道を車イスで漕いでいると、
視線が集まる。

サッカーをしていた頃の視線と、
まったく違う視線だ。


スタンドから観られていた人間が、
今度は、
道行く人達から観られている。



とても辛い。
本当に辛い。


辛くなると、
やはり、過去の栄光が甦る。


サッカーが楽しかったな。

本当に、サッカーが好きだった。
毎日、1人でボールを蹴ってたよな。


俺は、
スタンドの観客から観られたいから?
声援を受けたいから?
それでサッカーをやっていたのか?


いや、違う。
サッカーが好きだったからだ。

観客なんていなくても、
サッカーボールがあれば、
ボールを蹴っていられれば、
それで良かった。


そして、
サッカーが好きな仲間と出会って、
仲間と同じ思いでサッカーを楽しんだ。


今は、両足がないから、
サッカーが出来ない。

でも、
手はある。

サッカーは、手では出来ないけれど、
手工芸など、
手を使えば色んなことが出来る。

サッカーが、
あれだけ上手になれたのだから、
手を使った事で、
好きになれることがあるんじゃなかろうか?


そう、思ったが吉日。


手あたり次第に、
手工芸や、
手だけで出来る、夢中になれるものを探した。

探せば、
出るわ出るわで、
手が回らないほどに、
やりたい事が溢れ出て来た。


一昨年までは、
俺の人生は終わった。

そう悲観していた自分がいましたが、
今では、毎日が忙しいです。

やりたい事が、
止めどなく押し寄せてくる。

これが、
五体満足な身体だったとしたら、
もっと、
やりたい事が溢れかえっていただろう。

そう思うと、
体にハンデがあって助かったと思えるほどだ。


僕は、
過去の栄光にすがりつくのは、
反対ではない。

どちらかというと、
過去の栄光になるような事を、
たくさん量産して欲しいくらいだ。


栄光を、たくさん残したならば、
それだけ、
その人は1日を充実していただろうから。


その栄光は、
努力の「証」だと思うのです。


過去の栄光は、
自分にとっての努力の結晶です。

大切な物。



努力の結晶を思い出すと、
その、
努力していた自分と再会できる。


過去の自分と再開し、対話する。


お前は努力して栄光をつかめた。
今、何をしてんだ?


その様はどうした?



過去の栄光が、
無様な自分に叱咤激励をしてくれる。

あの時の、
努力を思い出させてくれる。

努力が出来た「原動力」を、
思い出させてくれる。


だから僕は、
過去の栄光にすがりつくし、

過去の栄光を大切にする。

その栄光を、くすぶらせない。


そして、
今、与えられている現状で、
僕の全てを、力を発揮したい。



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