「受け入れたくなかった」理由

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「受け入れたくなかった」理由


作者:高瀬浩司



20歳の時に、オートバイで事故を起こして、
脊髄損傷で車イスを利用する生活になりました。
当時、特定の看護師によく言われた言葉で、
「障害を受け入れて!」という言葉がありました。

僕としては、立ち直りも早かったのもあって、
「足が動かないのならば、手だけで天下を取ってやる!」
少し、大袈裟な表現ですが、
そういう発想をする性格でした。
ハンデがある方が、僕にはやり甲斐があったのでしょう。

ということで、
看護師が、落ち込んでもいない僕に対して、
「障害を受け入れて!」と励ますのです。
時には、
「車イスバスケットを頑張りなさい!」
なんて言葉も掛けてくれる。

ありがたい言葉なのですが、
僕は、障害を負った事は辛いですが、
もう前を向いています。
新しい生活の準備や模作をしているのです。
自分が生活をする環境を整えようとしているのです。

そんな時に、
まだ住む家も決まっていない、リハビリも終わっていない、
まだまだこれからの生活の準備が出来ていない時に、
「車イスバスケットを頑張りなさい!」
と言う看護師の言葉に怒りを覚えたものです。
また、
「障害を受け入れて!」
とダメ押しのように何度も言われることについても怒りを覚えました。

歩けない身体になった人が居て、
なかなか現実を把握できずに、苦しんでいる方々もいる。
歩けない身体を認めたくない人もいるだろう。
そういう人に「障害を受け入れて」というならまだ解る。

僕はそうじゃない。
もう、前を向いている。
前を向いている人間に、
「障害を受け入れて」とは何事ですか?
そういった意味で、
僕は「障害を受け入れて」という言葉が大嫌いだったのですが、
よくよく考えたら、「受け入れる」という言葉が嫌いなのではなくて、
その言葉を「使う人間が嫌い」で、その人間を「受け入れたくなかった」のだと解りました。

子供の頃から、何事にも夢中になる子供でした。
夢中になるものですから、
朝から晩まで、ずっと夢中になっているんです。
サッカーを始めると、朝から晩までボールを蹴っています。
人一倍、ボールに触れていますので上達も早かったです。
なもので、ハンデがあって丁度みたいな。

バイクに乗っていた頃も同じで、
そんなに速く走れないオートバイで速く走るんです。
技術です。

「やってやれないことは無い!」
そんな性格ですし、ハンデがあると、余計に血が騒ぐ性格です。
身体的なハンデは、辛くて苦しく、悲しい事も多々ありますが、
そのハンデが、僕には「バネ」になるようでした。

それを、
「障害を受け入れて」と言われるものですから、
僕の「自尊心」に傷をつけられたような感覚になったのでしょうね。
「俺をみくびるなよ!」と、看護士に腹が立ったのでしょうね。

僕のように、
身体的なハンデをバネに出来るような人もいれば、
身体的なハンデを負って、なかなか前に進めない人もいます。

いろんな思いがあって当然だと思います。

僕は、「障害を受け入れて!」と声を掛けられたら腹が立つけど、
他の人は、「障害を受け入れて!」と言われて、前を向ける人も居るかも知れません。
人それぞれだと思います。

僕は、「障害を受け入れて!」という言葉が大嫌いでしたが、
嫌いな理由が解って良かったです。
その言葉を使う人が嫌いだったのだと。

また、杓子定規に、「受け入れて!」という言葉を、
「自分でケガしたんしょ? 自分の責任でしょ?」
と言われているように感じて、ひねくれた解釈もしていたと思う。

僕の心に、「大きな自尊心」が「大きなプライド」があったのでしょうね。

「あなたは、ハンデを負ったのですよ」
と、他人から念押しされるのが屈辱だったのでしょうね。

僕にとっては、
「障害を受け止めて」だとか、
「障害を受け入れて」だとか、
言葉のニュアンスがどうであれ、
他人から、念押しされて、
ハンデを負ったと「諭されるのが屈辱」だったということです。
自分の傲りと、プライドの高さに、改めて驚きます。

車イス生活を続けていて、
両足に「床ずれ」が出来ました。
手の施しようがなくて、両足を切断しました。
歩けない、動かない足でしたが、
無くなると悲しかったです。

両足を切断した時は、
誰からも「現実を受け入れて!」なんて言われませんでした。
僕自身も、ケロっとしていたのもありますが、
回りの方々は、なんと声を掛けて良いのか解らなかったかも知れません。
動かない足を切断しただけなのだから。

歩ける人が、いきなり両足を失うとの訳が違う。
そんな所でしょうか。
でも、
何度も言いますが、
歩けない動かない足を失ったら、悲しかったです。
もう慣れましたが。


そして、慢性腎不全になって、人工透析を受けることになって、
言われました。
「病気を受け入れて!」と。

また、「受け入れてかよ!」って思いました。

慢性腎不全になった時は、まだ、前を向けていませんでした。
「病気を認めたくなかった」自分が居ました。
病気による症状で、幻覚を見たり幻聴が出ていましたので、
病気に向き合う状態ではありませんでしたし。

症状が和らいで、
人工透析を受け始めた時、
透析クリニックの主治医に言われた言葉が、
「人工透析で血をキレイにしたら普通に生活ができるからね」
と仰ってくれた。

その主治医の先生の言葉に、僕は救われたと思う。

もし、その主治医が、
「病気を受け入れて!」なんて言っていたなら、
僕は拒絶したかも知れません。

言い方だと思います。

クリニックの主治医は、
「慢性腎不全と言う病気です。」
「治らない病気です。」
「しかし、機械で血をキレイにしたら普通に生活できるからね。」
僕には、優しい言葉でした。

「病気を受け入れて=自分の事は自分でしろよ!」
ってな言いぐさには聞こえませんでした。

クリニックの先生の言葉が温かく感じました。

それで、僕は慢性腎不全だと認めて、
治療を受けて、
普通の暮らしをしています。

それを「病気を受け入れる」って事なのかもしれませんが、
言葉を発する人を、僕は拒絶し、選別していたのですね。

そうさせていたのが、
僕の「自尊心」や「プライド」だったということですね。


「受け入れる」
という言葉が、難しく感じる僕のような人間もいるでしょうし、
その言葉が受け入れられ人もいるでしょう。

病を負った人に、言葉を掛けるのは難しいと思います。
相手の状況にもよりますからね。

病気を伝えて、認めれないでいる人もいるでしょうし、
病気を知って、自ら命を絶つ人も。
簡単に、気休めじみたことを言われて、腹を立てる僕のような人間も。


僕が慢性腎不全になった時、
「事実」を伝えて下さり、
その後の「治療法や予定」を教えてくれ、
気持ちを「安心」させて頂けて幸いでした。



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