みちびき

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~小説家になろう~https://ncode.syosetu.com/n6070ej/ 

みちびき


作者:高瀬浩司


人生に、いくつもの「ターニングポイント」がありました。
その多くは、「悲しみ」でした。
悲しみを乗り越えて、大きな心を養うためのポイントのようでした。

幼い頃から父親の借金などで、引っ越しすることが多かった。
散々、父親に振り回された挙句、中学2年生の時に両親が離婚をしました。
父が家を出て行きました。
それを期に、僕は学校に行かなくなりました。
というより、学校に行けなくなったのです。

4人兄弟の長男です。
母子家庭となって、さらに貧しい生活になりました。
日曜日に釣り堀でアルバイトをし、1日4000円のバイト代を食費に充てていました。
夏休みも、親戚の叔父さんの仕事を手伝い、家計を助けました。

僕には、早々に将来の進路が決まってしまいました。
中学校を卒業したら、高校に進学せず仕事をすることが決まっていた。
家族を養うためです。
だから、学校に行けなくなったのでした。

学校に行くと、みんな高校進学に胸をときめかせている。
進路で悩む生徒もいましたが、みんな希望に満ちていました。
みんなが高校受験に備えて、未来に向けて頑張っている。
そんな中、僕はどうでしょうか?
悔しかったです。
自分が惨めでした。
僕1人だけが取り残されて、クラスでも浮いていた。

心がやさぐれました。
やさぐれた心のまま、ほとんど学校には行かずに学生生活を終えました。

中学を卒業してすぐ、近所の型枠大工さんのお世話になりました。
家族を養う生活が始まりました。
しばらくすると、母親に恋人が出来ました。
恋人が出来たことで、僕の役目が終わったようです。
母親の恋人が家族を養ってくれることになり、
僕は家から追い出されるような形で、1人暮らしをすることになった。

1人暮らしを始め、僕は何からの束縛もなく、自由になりました。
暗くて、寒いアパートで考えました。
僕の人生って、何だったのだろうかと。
途方に暮れました。
生きている目的もなく、ただ、その日を暮らしていました。

ある時、中学時代の知人がバイクに乗って遊びに来てくれた。
そのバイクを見て、僕の心が躍った。
「僕もバイクの免許を取ろう!」と思ったのです。
そしてバイクの免許を取り、人生の目的といいましょうか、
喜びと言いましょうか、新しい生活が始まりました。

毎日毎日、バイクに乗っていました。
働いた給料の全てを、バイクにつぎ込みました。
バイクを中心とした生活が始まりました。

僕のアパートには、しだいにバイク仲間が増えて行きました。
たまり場となりました。
バイクが好きな仲間が集まりました。
毎週、仲間と走りに行きました。
また、彼女も出来て、彼女と同棲も始めました。
誰にも束縛されずに、自分達の力でお金を稼いで生活し、
やりたい事だけをやって暮らしていました。
同棲していた彼女の家庭も、父子家庭だったこともあって、
気持ちが解り合えたのかもしれないですね。

彼女と同棲を始めて3年目。
当時、僕は20歳でした。

そろそろバイクを降りて、彼女と結婚して家庭を築こうかと思っていました。
今まで、僕の夢の為に寄り添ってくれた彼女へ、
今度は僕が、彼女を幸せにしようと思ったのです。
ケジメを付けるために、ラストランといった、カッコいいものではありませんが、
走り続けていた山に行きました。
そして思う存分、最後のバイクを楽しみました。

バイクにまたがって、「ちょっと走って来るわ」と彼女に告げました。

その言葉を最後に、それ以降の記憶がありません。
意識を取り戻したとき、僕は病院のベッドの上に居ました。
バイクで転倒して、意識不明の重体で何日も危篤状態だったのでした。

背骨をはじめ、10数か所の骨折と、内臓破裂、
脊髄を損傷して、下半身が麻痺していました。

ケガが落ち着いて、車イス生活が始まりました。
自分が歩けない身体になって、彼女との間にヒビが入ってきました。
これから先、僕はどうやって生きて行けばいいのか苦しんだ。
彼女も、身内や周りの人達から色々と言われたようだ。
「よく考えなさいよ」と言われたようだ。

そんな事を言われている事も知っていた。
だからこそ、僕も悩んだ。
別れてあげるのが彼女の為なのかなって。

そうはいっても、簡単には気持ちの切り替えができません。
切り替えが出来ないけど、彼女の幸せも考えてあげないとダメだし。
本当に苦しかった。
自分が歩けない身体になったことよりも、
彼女と別れる事の方が、辛かった。
こんなことで、もろくも、愛情が壊れてしまうだなんて。
こんな時だからこそ、お互いが支え合うのじゃないのかって。
今まで支え合ってきたじゃないかって。

歩けなくなったから、もう付き合えない。
もう、一緒に暮らせない。
「歩けないからだの人と、やっていけるの?」
そんな他人の言葉に悩む彼女に、僕は失望した。

また、歩けない身体になって、彼女を養っていく自信もない、
僕自身にも失望しました。


彼女との距離が、どんどん広がっていく。
俺はもう終わったんだ。
そう言い聞かせていました。

そんな時に、入院していた知り合いの看護師さんが寄り添ってくれていた。
僕の知人のお姉さんってことで、僕に親しくしてくれていた。
彼女は、日に日に、僕から遠ざかっていく。
僕も、彼女を遠ざけていたと思う。

そんな僕に、手厚い看護をしてくれる看護師さんに、
僕は心を委ねるようになっていく。
看護師という仕事柄で、歩けない身体の人との対応が出来ているのだと思っていた。
しかし何か違った。
僕が辛い時も、悲しい時も、人生に嫌気を指したときも、
いつも看護師さんはニコニコしていた。
その笑顔を見て、腹が立つときもあった。
救われる時もあった。

「この人の笑顔の秘密って何だろう?」
そんな事を考えるようになっていました。
この人は、他の看護師さんたちと違うよな?って。
僕を、歩けない患者さんってな目で見ているのではない。

いいえ、歩けないことなんてどうでもいい。
「それよりも、もっと大事なことがあるんやで。」
そういった迫力が伝わってきました。
そこに、僕の「希望」が見えたのだと思う。

この人が持っているものって、何なんだろう?
それが知りたくなりました。
その時は、恋だの愛だのって、まだ意識はありませんでした。
この看護師さんが持っている、心の中に抱いている物の正体を知りたかったのでした。

それからいつも、看護士さんと一緒に居ました。
日曜日には、教会堂に通っている事も分かった。
入院中でしたが、外出届を出して、一緒に教会堂へ連れて行ってもらいました。

教会に通いだして、色々と見えてきた。
自分の人生感や、これからの人生感も。
これからの人生の希望も見えてきた。

それと同時に、看護士さんへの愛情も芽生えてきました。
この人なら・・・って、思いました。

彼女とは、心の距離が開いて、合う回数も減ってきました。
恋人同士なのか、どうかも分からなくなっていました。
別れると言った話も無いまま、時が過ぎて行きました。

奈良県の病院では、しっかりしたリハビリが受けれないという事で、
兵庫県の病院に転院することになった。
転院する日、入院していた病院の事務員さんが、
兵庫県まで僕を自動車で送迎してくれました。
助手席には母親が座っていて、
後部座席に僕が座り、横には看護士さんが座っていた。
彼女ではなくて、看護士さんが座っていました。

兵庫県に転院してからは、毎月、看護士さんから手紙が届いた。
僕も手紙を書いた。
文通をしていた。

看護士さんは、月に1度、お見舞いに来てくれた。

約2年近くのリハビリと車イス生活の訓練を終え、
兵庫県から帰ってきた僕に、真っ先に会いに来てくれたのも看護師さんだった。
奈良県に帰って来たものの、住む家がありませんでした。
当時、彼女と暮らしていたアパートは2階に部屋があり、
車イスでは生活が出来ません。
ということで、住居が決まるまで病院で生活をしていました。

仕事が終わると、看護士さんが来てくれた。
ただ、一緒に居てくれた。
何を頑張れということもなく、ただ、そばに居てくれた。

僕としては、
これから先、仕事をして稼がないと暮らせないと思ったので、
障害者職業訓練校に入所して、技術を取得しようと考えました。
地元の奈良県には、そういった学校はない。

現在のハローワークへ行き、愛知県にある障害者職業訓練校に申し込みをしました。
ある程度、入所が決まったみたいなので、
看護士さんに初めて、愛知県に行くことを話そうと思った。
そういった計画を内緒にしていました。

いつものように、仕事を終えて看護師さんが来てくれた。
そして、すぐに愛知県へ行くことを話した。
すると、看護士さんは、何も言わずに怒って帰ってしまった。

それ以来、僕が愛知県へ旅立つまで、
1度も、看護士さんと会うことは無かった。

愛知県の職業訓練校へ入所し、1年間の職業訓練を受けます。
愛知県での生活が始まりました。
色んな障害を持たれた方々と共同生活をします。
障害の見たら、上も下もない。
どんな障害であろうと、本人には辛い物です。
でも、みんなそれでも笑顔で生きている。
それが何よりの、癒しでした。
傷のなめ合いだと揶揄されるかも知れませんが、
同じ痛みを持ち、痛みが解る人達がいる事で、
どれほど心が救われる事でしょうか。
僕は、傷のなめ合いだと揶揄されても構いません。
傷を舐めて、癒されるのだったら大いに舐めますよ。

愛知県で生活を始めて、2週間ほどでしょうか?
宿舎の公衆電話のベルがなりました。
外部の方々が、入所者に連絡をしたい場合、
この公衆電話が鳴ります。

たまたま僕が公衆電話の近くに居たから、電話に出ました。
「はい、障害者訓練校です。」と電話に出ました。
すると、僕の声を聞いた相手が言いました。
「あ、こうちゃん? 元気?」
僕の声を聞いて、僕だと気が付いてくれた。
看護師さんからの電話でした。

愛知県へ行くことを話した時、怒って帰ったきり、
話もしていなかったのですが、電話を掛けてきてくれた。
元気にしているのか?気に掛けてくれたようです。

愛知県での生活が、あっというまに半年が過ぎました。
楽しいこともたくさんありました。
たくさんの想い出が作れた。

そして、トラブルがあって、訓練校を退学することになった。
ちょっと複雑なことなのですが、
学校内で聖書を読まないと約束できるなら退学しなくていい。
もし、聖書を読むのなら退学してもらいます。
そういう選択を迫られたのでした。
僕は、どこにいても聖書を読むので、退学しますと伝え、退学しました。

急遽、奈良県に帰ることになりました。
奈良の実家に帰るのですが、母親にも連絡せず、
誰にも連絡せずに、電車に乗って奈良に帰りました。

訓練校からは、実家に連絡があったのでしょう。
母親は慌てることもなく、布団を敷いてくれていた。
事情は、訓練校の担任から聞かされていたのでしょう。
何も言わずに、居てくれた。

次の日、看護士さんが家に来た。
奈良に帰ることを連絡していなかったのに、来てくれた。
愛知県でお世話になったクリスチャンの方々の計らいでした。

看護士さんも、事の経緯を、一切聞かなかった。
ただ、いつもの世にそばに居てくれた。

実家に帰ったものの、職業訓練も半ばで退学になった。
途方に暮れかけていた時、ある会社の社長から声を掛けて頂いた。
そして、就職できました。
なんでしょうか、
退学させられましたが、奈良に帰ったら就職先が用意されていました。
今思えば、ちゃんと備えはあったのでした。
僕達は、先の事は解らず不安になることが多いけど、
その人には、その人の歩む道がちゃんと備わっているようです。
導かれているようです。
神様から。

仕事も順調で、何とか生活も落ち着いてきました。
毎週、教会堂にも通えていました。

ある日の夜、看護士さんから電話が掛かって来た。
「あのな、誰にも相談してないんだけど、結婚を示されたの」
と看護師さんが言った。
結婚を示されたというのは、
ある教会の牧師が、九州で牧会するので助けてとして、
結婚を求められたという事です。

看護士さんは、その牧師とは恋愛感情も無ければ、
どんな人かも知りません。
でも、牧会する助け手としての声がかかった。

目の前が真っ暗になりました。
重たい石で、頭を殴られたような感じでした。
絶句とは、このことを言うのかというくらいに、
声が出ませんでした。

その時、初めて看護師さんに告白しました。
「好きやねん」
と。
看護士さんは、「うん」と答えた。

しばらく会話が途絶えました。

もし、神様が結婚を導いておられるなら、
それが正しい事だと思う。
信仰を貫こうとしている看護師さんに、僕がかけれる言葉は1つしかない。
でも、本音が出てしまいました。
「結婚しないでくれ」
と言ってしまった。

そしてまた、沈黙が続いた。

看護士さんは、「大丈夫?」と聞いてきた。
僕はここrのの中で腹が立った。
「大丈夫な訳がないだろうが!」と。

しばらくの沈黙の後、
「神様の導きなのだから、祈らないとな」
と伝えました。

僕が、バイクで事故を起こして歩けない身体になった。
一緒に暮らしていた彼女は離れて行く。
そんな僕のそばに、いつも看護師さんが居た。
看護師さんの中に輝く神様の栄光が、僕を生かしてくれた。
神様の栄光が、他の人々にも必要なのだから、
僕はそれに答える。
看護士さんも、神様の意図に従おうとしているのだから。

愛した女性が、お見合いのような形で、
奪われるのですから、辛かったです。
まだ、看護士さんがその男性と恋愛していたのならまだ解るが、
どんな人かもわからない男性と結婚するのだから。

辛かったですが、悲しみはなかったです。
神様の栄光の為ですから。

結婚式にも出席しました。
まともに、看護士さんの顔を見れなかった。

今、九州で牧師の妻として、働いているようです。
僕はというと、
色々と体を壊しては、入退院を繰り返し、
今では人工透析をするほどに、体が弱っています。
教会堂からも離れた生活をしています。

人の心の汚さ、社会の裏側、病気の苦しさ、
表と裏とおう人生があるならば、
ぼくは裏の人生を歩んでいるようです。

人生の、社会の裏側を生きる人達の悲しみや辛さを味わい、
その中での希望の光を灯す為に、僕は導かれたのかな?
そんな風に思います。

表現の仕方は悪いですが、
いくら健康な人が人生論を熱く語ったとしても、
体の不自由な、痛みを味わっている人たちに、
苦しい生活の中の人達の心に響かないこともある。

同じ境遇の人達の言葉には、真実味があります。
心に響きます。

傷の痛みを知らない人が、
他人の痛みなんて分かるはずがないんです。

そういう風に思うと、
僕は色んな苦しみを味わって来たことに、
僕の役目があるのかなと思います。

神様の栄光を示す器として、用いられているのだとしたら、
僕は嬉しいです。

時に、
自分にとっては悲しい事ですが、
後々になって考えてみると、幸せになるよう導かれていた事も多々あります。

僕には、僕にしかできないような、
神様のご計画があるようですね。

すべて、神様にゆだねてみたいです。







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